2013年12月23日
写真 被災地を写真で残す 東松島市・矢本町・気仙沼市
本ブログRemakeYamamotoではその名前の通り、宮城県の南端山元町の震災以後の風景や情報を主にアップしております。
山元町が題材なのは私の実家が在る第二の故郷だからです。私は岩手県水沢市(現奥州市)で生まれ、仙台で育ち、17歳の時に山元町に移り住みました。思い出の風景の多くはこの3地点、水沢、仙台、山元ではありますが、子供の頃から父親に連れられて海釣りをよくしており、更にオートバイを買ってからはこれまた海沿いをよく走りました。
私にとっては子供の頃から現在に至るまで海辺の風景は日常と「思い出」がセットになっている風景です。ですから、活動内容は変わっては行くものの東日本大震災で一度は破壊されたモロモロの物事の再建、再生を見続けることは自身の日常や思い出の再建、再生とも繋がるのです。
今回の写真は2012年に撮影した東松島市にある野蒜駅周辺と矢本町航空自衛隊松島基地周辺の写真を2013年のものと見比べていただきます。
ブログ後半では解体する前日夜に撮影した気仙沼市に在った第十八共徳丸を掲載します。
こういった写真に何の意味が有るのか?情報発信の意味合いも震災後から段々と変わっているように思えます。ただ、言えることは被災地に住む人間がこうして生の情報を発信し続けなければ不理解、誤解の連鎖が続いていきます。テレビをはじめとするマスメディアとは異なる角度から被災地の今をご覧いただけると幸いです。
東松島市野蒜駅
県道27号線(奥松島線)に沿って位置するJR駅です。住宅地と漁業の作業スペースが交互に現れる風景でした。マラソン大会のコースにもなっておりドライブルートとしても良い所です。写真の地域は特に被害が大きく、復旧作業もかなり時間の掛かった地域です。震災直後にアメリカ軍によるトモダチ作戦で撮影された地域でもあるのでご存知の方も多いかもしれません。
しかし、その後はメディアに取り上げられる回数もかなり減ってしまいました。また、住民と行政側でJR復旧に関する意見が噛み合わなかったことも地域再建の遅れの一因になっております。震災以前は住宅地、海水浴場、ホテルや民宿、コンビにも並ぶ場所でした。
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2012年6月頃の写真
2013年10月頃の写真(マラソン大会出場時に撮影したのでランナーが写っております)
矢本町松島基地周辺
航空自衛隊松島の近くにある住宅地、当地域よりも西に10分も車を走らせれば大型ショッピングセンターも在り津波の来た所と来なかった所の差をハッキリと示してしまう地域です。父親に連れられ航空祭を良く見に行きました。
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2012年6月頃の写真
2012年当時、未だ被災した住宅が残っておりました。有る程度の片づけをしている家もあれば全く手付かずの家も在りました。
2013年11月頃の写真
山元町の沿岸部と同じ荒涼としたまっさらな空間が広がっております。ただ、足元をよく見ると生活の痕跡・・・文房具やおもちゃ等家があった証拠がそこかしこに落ちてありました。
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第18共徳丸 気仙沼市
撮影は2013年9月です。ニュースで第18共徳丸の解体が決定し次の日に解体作業に入ると知り、前日夜に撮影してきました。地盤沈下した海と地面の境界が凄く近くで震災前の記憶があまり役に立ちませんでした。
周りを見渡せば震災の被害の爪あとが色濃く残るものの町明かりは周囲に散らばり、共徳丸の目の前にはコンビニエンスストアも再開してました。私も夕ご飯の買い物をしました。そして、店を出ると共徳丸・・・日常の普通の中に異質が在る被災地域特有の風景をたくさん見ましたが、共徳丸とコンビニ、更にその周囲にはバス停、信号機が在るこの周囲は特に異質な感じがしました。震災遺構として残すか?解体か?で意見が割れた時期もあったようですが、確かに共徳丸は日常を戻したいと願う地域からみれば異物だったのかもしれません。
共徳丸の写真や映像は新聞やテレビでも良く見かけましたが、その周囲については殆ど知られていませんでした。やはり、現場に居ないと本当の今は分かりません。
写真左の灯りは信号機
コンビニの駐車場から共徳丸を撮影。緑の灯りは信号機、白は街灯、写真中央奥に共徳丸のシルエット
車との対比
左に共徳丸、右奥に信号機、コンビニ
撮影後日、共徳丸の解体工事着手の新聞記事
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東日本大震災から次の3月で3年を迎えます。そして、次の3月11日まで残り3ヶ月強となりました。東北の太平洋沿岸は未だ殆ど「何も在りません」
もちろんそれは物理的に建物が無いという意味でもあります。しかし、もう一つ「生活の息吹」とか「気配」という撮影できない側面でも未だ「何も無い」地域が殆どです。今のところ撮影できないものが少しずつ再生、再建された地域は正しく「点在」というレベルです。
東日本大震災、その後の相次ぐ大型の自然災害についての再生はとても時間の掛かるものであると、現場に行くたびに認識を繰り返す次第です。
復興と言う言葉は飽きた、使わないでもいいとのご意見も在りますが、もう少し使わせて欲しいとお願いするところであります。この写真の通り、復旧ですら実現できなかったところばかりです。復旧、復興、再建、再生、再興などこういった言葉すら続かなくなると、本当にその地域は消滅していってしまうのという危機感を禁じ得ません。できるだけ多くの人達に災害が訪れた地といものを体験してもらいたいと切に願います。
復興の原資は、その地域を何とかしようと想いの総和です。そして、その想いの切っ掛けになるのは「今」を知ることです。これからも出来るだけ多くの原資を集めて行きたいと思います。
山元町が題材なのは私の実家が在る第二の故郷だからです。私は岩手県水沢市(現奥州市)で生まれ、仙台で育ち、17歳の時に山元町に移り住みました。思い出の風景の多くはこの3地点、水沢、仙台、山元ではありますが、子供の頃から父親に連れられて海釣りをよくしており、更にオートバイを買ってからはこれまた海沿いをよく走りました。
私にとっては子供の頃から現在に至るまで海辺の風景は日常と「思い出」がセットになっている風景です。ですから、活動内容は変わっては行くものの東日本大震災で一度は破壊されたモロモロの物事の再建、再生を見続けることは自身の日常や思い出の再建、再生とも繋がるのです。
今回の写真は2012年に撮影した東松島市にある野蒜駅周辺と矢本町航空自衛隊松島基地周辺の写真を2013年のものと見比べていただきます。
ブログ後半では解体する前日夜に撮影した気仙沼市に在った第十八共徳丸を掲載します。
こういった写真に何の意味が有るのか?情報発信の意味合いも震災後から段々と変わっているように思えます。ただ、言えることは被災地に住む人間がこうして生の情報を発信し続けなければ不理解、誤解の連鎖が続いていきます。テレビをはじめとするマスメディアとは異なる角度から被災地の今をご覧いただけると幸いです。
東松島市野蒜駅
県道27号線(奥松島線)に沿って位置するJR駅です。住宅地と漁業の作業スペースが交互に現れる風景でした。マラソン大会のコースにもなっておりドライブルートとしても良い所です。写真の地域は特に被害が大きく、復旧作業もかなり時間の掛かった地域です。震災直後にアメリカ軍によるトモダチ作戦で撮影された地域でもあるのでご存知の方も多いかもしれません。
しかし、その後はメディアに取り上げられる回数もかなり減ってしまいました。また、住民と行政側でJR復旧に関する意見が噛み合わなかったことも地域再建の遅れの一因になっております。震災以前は住宅地、海水浴場、ホテルや民宿、コンビにも並ぶ場所でした。
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2012年6月頃の写真
2013年10月頃の写真(マラソン大会出場時に撮影したのでランナーが写っております)
矢本町松島基地周辺
航空自衛隊松島の近くにある住宅地、当地域よりも西に10分も車を走らせれば大型ショッピングセンターも在り津波の来た所と来なかった所の差をハッキリと示してしまう地域です。父親に連れられ航空祭を良く見に行きました。
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2012年6月頃の写真
2012年当時、未だ被災した住宅が残っておりました。有る程度の片づけをしている家もあれば全く手付かずの家も在りました。
2013年11月頃の写真
山元町の沿岸部と同じ荒涼としたまっさらな空間が広がっております。ただ、足元をよく見ると生活の痕跡・・・文房具やおもちゃ等家があった証拠がそこかしこに落ちてありました。
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第18共徳丸 気仙沼市
撮影は2013年9月です。ニュースで第18共徳丸の解体が決定し次の日に解体作業に入ると知り、前日夜に撮影してきました。地盤沈下した海と地面の境界が凄く近くで震災前の記憶があまり役に立ちませんでした。
周りを見渡せば震災の被害の爪あとが色濃く残るものの町明かりは周囲に散らばり、共徳丸の目の前にはコンビニエンスストアも再開してました。私も夕ご飯の買い物をしました。そして、店を出ると共徳丸・・・日常の普通の中に異質が在る被災地域特有の風景をたくさん見ましたが、共徳丸とコンビニ、更にその周囲にはバス停、信号機が在るこの周囲は特に異質な感じがしました。震災遺構として残すか?解体か?で意見が割れた時期もあったようですが、確かに共徳丸は日常を戻したいと願う地域からみれば異物だったのかもしれません。
共徳丸の写真や映像は新聞やテレビでも良く見かけましたが、その周囲については殆ど知られていませんでした。やはり、現場に居ないと本当の今は分かりません。
写真左の灯りは信号機
コンビニの駐車場から共徳丸を撮影。緑の灯りは信号機、白は街灯、写真中央奥に共徳丸のシルエット
車との対比
左に共徳丸、右奥に信号機、コンビニ
撮影後日、共徳丸の解体工事着手の新聞記事
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東日本大震災から次の3月で3年を迎えます。そして、次の3月11日まで残り3ヶ月強となりました。東北の太平洋沿岸は未だ殆ど「何も在りません」
もちろんそれは物理的に建物が無いという意味でもあります。しかし、もう一つ「生活の息吹」とか「気配」という撮影できない側面でも未だ「何も無い」地域が殆どです。今のところ撮影できないものが少しずつ再生、再建された地域は正しく「点在」というレベルです。
東日本大震災、その後の相次ぐ大型の自然災害についての再生はとても時間の掛かるものであると、現場に行くたびに認識を繰り返す次第です。
復興と言う言葉は飽きた、使わないでもいいとのご意見も在りますが、もう少し使わせて欲しいとお願いするところであります。この写真の通り、復旧ですら実現できなかったところばかりです。復旧、復興、再建、再生、再興などこういった言葉すら続かなくなると、本当にその地域は消滅していってしまうのという危機感を禁じ得ません。できるだけ多くの人達に災害が訪れた地といものを体験してもらいたいと切に願います。
復興の原資は、その地域を何とかしようと想いの総和です。そして、その想いの切っ掛けになるのは「今」を知ることです。これからも出来るだけ多くの原資を集めて行きたいと思います。
2013年12月20日
2013年山元町のふれあい産業祭
少し遅れましたが・・・2013年11月23日に山元町ふれあい産業祭に遊びに行ってまいりました。今回は東北学院大学の災害ボランティアステーションの学生スタッフ2名とブログにもたまに登場していただくFさん4人での見物です。
2012年の産業祭の様子
http://fightmiyagi.da-te.jp/d2012-11.html
さて、山元町の町内巡回バスの一部にAKB48のバスがあります。これは2011年の復興イベントの際に寄付されたものとのこと。産業祭のお客さんも大勢運んでいました。
山元町産業祭の特徴は出店屋台のレベルがとても高いことです。町内外の飲食店が数多く出店しているため、出店の料理はそれこそお店レベルです。屋台群を一回りすると旨いもので両手が一杯になります。
去年同様に佐藤蒟蒻店の玉こんにゃく、田楽でスタート
石釜ピザ(角田産の枝豆入り)
ホッキ貝のバター焼き(たけだ魚屋さんの屋台)
宮城県南部の秋の味覚 はらこめし(同じくたけだ魚屋さんの屋台)
各屋台を回ってのお昼ご飯・・・はらこめし、かきめしのお握り、ほっき貝のバター焼き、キュウリの麹漬け、早生りみかん、横浜屋台の水餃子、マルタの木ブドウ液
食事後の祭の様子・・・旧山元町庁舎跡で上棟式が行われました。懐かしい餅撒きの様子。
さて、祭りも終わり山元町内の見学に・・・11月上旬に住宅地内で造作した菜の花花壇を見に行きました。小さな芽が出ておりました
11月の菜の花花壇造りの様子・・・
http://fightmiyagi.da-te.jp/e621628.html
山元町 みんなの図書館の敷地ではビニールハウスで作った仮設集会所を作っている途中でした。
次に向ったのが、同じ年の夏に東北学院大学はじめ全国の学生達の活動のお世話になったGRA農場へ・・・自分達の関わった畑の数ヶ月経った様子はどの様に見えたでしょうか?
写真は施設内にあるセグウエイで遊ぶ人(笑)
祭をはじめ、町の至る所で満喫した一日でした。普段の閑散、人口の減少、沿岸部の再建の差、風景の空洞化などマダマダ全てが途中の状態ですが「楽しい」という要素も備え始めたことも実感した一日となりました。